Stringio

Male 弘明

Adachi-ku, Tokyo, Japan

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Profile

Language: 日本語


「この世に生を得るは事を成すにあり」

2012年8月2日 株式会社ライフシェアワークス設立

「所有」から「共有」へのライフスタイルを広めるべく、
日本で初めてのシェアサービス事業を展開。

何故シェアだったのか。
一言で言えば、それは僕が貧乏だったからである。
正確には貧乏→プチバブル→貧乏を繰り返し、
少しずつ物を減らして行ったのだ。

シェアとは、実は古くて新しい文化的価値観だ。

今の時代は沢山の物が溢れ、本当に大切な物が何か
見えなくなっている。
本当に大切な物とは、実は両手で数える程しか存在しない。
その他多くの物は、何となく所有しているか、無理矢理維持
しているか、見栄や流行に合わせて買っているに過ぎない。

そこに本当の価値はない。


僕たちは時代の変わり目を生きている。

長引く不況で給料は上がらず、終身雇用制度崩壊による失業者の増加、
漠然とした将来への不安など、現代を取巻く環境は厳しい。
そんな中で生まれたシェアという新しいライフスタイルは
これからの未来を切開く一つのキーワードになる。

「所有」から「共有」へは未来へのスローガンであり、
自分の譲れない物以外は全て共有してしまおうという
コンセプトである。
そして共有して余ったお金は本当に大切な事の為に使えばいい。

僕はこれからピアトゥピアマーケットプレイス、
リアルマーケットプレイスを利用して色んな物を
シェア出来る場を提供していく。

例えば、車の所有に困っているオーナーに第三の
選択肢を与えたり、みんなが集まれるスペースを提供したり、
共同で何かを買える仕組みなどなど、
可能性は無限なのだ。

そしてそれらの事業が大きく育つとき、新たなインフラが生まれる。
その変換時期もすぐそこまで来ている。

そもそも僕が起業を志したのは何も最近の話ではない。

僕の生まれ育った尼崎という街は、未だに情緒があふれ過ぎる
程の下街で、大都市大阪とオシャレ神戸に挟まれ
ながら独特の文化を形成した街だ。

1986年生まれ、世間で言う「ゆとり世代」。
僕らは生まれてからずっと不景気だった。

しかし実はこの時代、86世代と言われる人々が今、
新しい文化・価値を創造して行こうとしている。

僕もその86世代の一人である。

僕のプロフィールを紐解けば、
幼少の頃からビジネス的な事を
いくつもやって来ている。
もちろん数多くの失敗もした。
しかし、その失敗は確実に今の僕を形創ってきた。

ここで少し、僕の過去を振り返ってみたい。

「若くあれ、貧乏であれ、無名であれ」


幼稚園編

僕はオカンの運転する自転車の後ろで
幼稚園の行き帰りにいつも鼻歌を口ずさんでいた。

するとある時、このメロディはバーモントカレーの
CMに使えそうだと思い、フジテレビにCM用の曲として
売込もうと提案したが、オカンの反対という圧倒的
な権力を前に挫折。

レコード会社の存在すら知らなかった5歳の頃の話だ。
もしあの時、あの鼻歌がCMに起用されていたら、
僕は今頃、印税で優雅に暮らしていたに違いない。


小学生編

僕が小学生の頃、スーパーファミコンが大流行しており、
友達はゲームを年に何本も買ってもらっていた。

しかし、当時500円の小遣いしか与えられていなかった僕にとって、
そんな贅沢は途方もない夢だった。
そこで僕は500円という少ない資金で、
どうやってゲームソフトを手に入れるかを考えた。

両親とは幾度と無く壮絶な交渉を重ねたが、
当時の自分にはまだ何の力も無く、
お小遣いの賃上げ交渉はことごとく失敗した。

僕は自力でなんとかするしかないと思い、
自分なりのビジネスを考え始める。

まず初めに懸賞金ビジネスを始めた。

1枚50円のハガキを元手に懸賞金に応募して、
現金や商品券をもらうというビジネスだ。

初めは当然うまくいかなかった。

しかし、慣れて来ると不思議と当る
ポイント(コツ)のような物が見えて来る。

例えばハガキを選ぶ人がどんな人物か、
ハガキがどのように届くかなどのシーンを想像しながら、
戦略を立て、いかに選んで貰えるかを考える。

戦術としては、効率的ではないと思いつつも
当時大流行していたポケモンのキャラを
大人から見て子供らしく見えるよう、可愛らしい絵を施し、
目立つようにした。
また別の戦術として、
ハガキの淵を蛍光ペンで彩り、
重ねて届く事を想定に入れ、角に折目を付け、
更にはレッドオーシャンを避け、
応募者数の少なそうな新聞の懸賞金などに的を絞り応募した。

結果、当時500円だった僕の小遣いは、
1本10000円のゲームソフトを毎月余裕で購入出来る額に膨れ上がっていた。

時を同じく、ザリガニビジネスを始める。

「人生には時に思いもよらぬチャンスが巡って来るものだ。」

当時、隣町の大きな屋敷の池で大量の
ザリガニが捕れるという情報が入ってきた。

僕はすぐさまマーケティング調査に乗出し、
屋敷の住人の出入り状況、ライバルの同行、
ザリガニが好む餌、効率的に釣り上げるシステム、
釣ったザリガニを買い取ってくれる業者などを徹底的に調査した。

その後、友達を巻込みすぐにザリガニ捕獲隊を結成した。

実はこの時結成したメンバーは、
後の警察官、銀行員、
大手広告代理店、大手システム会社の技術屋など、
一つの会社を運営するのに必要な人材の卵が全て揃っていた。
今でいうところの
CEO、COO、CFO、CMO、CTOといった役職の人達だ。

最強メンバーを揃えた我がザリガニ捕獲隊は、当然の如く大勝利!

やり方はかなりグレーだったが、
結果としてバケツ一杯のザリガニを
毎日のように入手する事に成功した。

卸先はもちろん熱帯魚ショップだ。
買取業者である近所の熱帯魚ショップでは、
アロワナの餌としてザリガニ供給が追いつかない程の需要があった。

一回の漁でバケツ一杯300匹という数は熱帯魚ショップにとって、
まさに渡りに船の状況だった。
一匹あたり30円で卸、売上は900円。
そこから割り箸、糸、ちくわなどの
原価を指し引くと約400円程の利益となる。

このビジネスで我らザリガニ捕獲隊は
充実した小学生ライフをおくる事が出来た。
もちろん今では使えない手法だ。

更にこの年、僕は初めて自由の国アメリカの地を踏むことになった。
家族旅行という行事である。

この時の経験は後の僕の人生に大きく影響を及ぼす事となる。


中学生編

小学校5年の時に競争相手が増えた事もあり、
ザリガニビジネスに見切りを付けた僕は、
充実した中学生ライフに向けて次なるビジネスを既に考えていた。

それが、手編みニット帽ビジネスである。

当時大阪では「RYOtheSKYWALKER」や「チェホン」
などのアーティストを筆頭にジャパニーズレゲエが
流行の兆しを見せていた。

そこで僕は、再び徹底したマーケティングリサーチを行い、
ボブマリーが被っているようなニット帽に
ニッチなニーズがある事をつきとめた。
そして、その波に乗じてニット帽の生産・販売を開始する事になった。

最初にオカンからニットの基本的な編み方を学んだ。

次に、近所の手芸用品店で原材料の調達を行い、
放課後に家で黙々とニットを編む生活を続けた。

しかし、徐々に事業が軌道に乗るにつれ、
だんだんと時間が無くなり、ついには授業中も
ニットの生産に費やす生活を始めた。

もちろん同級生から、編み物男子として、
変な目で見られた事は言うまでもない。

売上はそこそこ。
しかし、自分の人件費を含めると大赤字。
これではビジネスが成立たないと思い、
すぐにニット帽ビジネスからの撤退を決意。
その時あった在庫をフリマで販売する事に専念した。

ただし、ニット帽だけでは弱いと思い、ノベルティやお中元、
家や近所で余っている不要品を集め、ニット帽と
共に言葉巧みにフリマで売りさばく、
小売業を始めた。

仕入は基本タダ、1500円の場代のみで、
一回数万円の売上を達成、
人件費を差引いても十分な利益が出た。

この頃から本格的にビジネスの世界に興味を持つ事になる。

小売業がかなりの売上を上げ始めた頃、
人生初のヘッドハンティングを受け、
古着の卸屋で週1回働く事になる。

法律的に義務教育中は働けないので、形式上はボランティアとしてだ。


高校生編

週1の古着屋仕事だけでは飽き足らず、
もっと稼いで自由な金銭が欲しいと思っていた頃、
たまたま近所の商店街で謎の牛乳(白バラ牛乳)
の飛び込み営業の募集を見つけた。

身分はアルバイト、
それでいて民家を一軒一軒回るという、
今思えばキツいバイトだ。

営業という仕事を何も知らなかった僕は、
先輩営業と名乗る見た目は完全なるおじいちゃんに、
基礎を徹底的に叩き込まれる事になった。

しかし、徐々に営業という仕事に慣れて来ると、
少しずつ自分なりのオリジナルスタイルを確立していった。

ちなみに営業指導をしてくれた先輩おじいちゃんは
元自動車ディーラーで、10年連続ナンバーワンの
販売実績を誇るスーパーエリート営業マンだった。
その営業手法はまさに神業で、年老いた風貌からは
想像も出来ないトークの数々、そして人や地域によって、
こまめに営業手法を変える変幻自在のスタイルを合わせ持っており、
僕はそれに何度驚いたか分らない。

そんな師匠の影響もあり、
僕は3ヶ月も経たないうちに営業所でTOPの成績を収める事になった。
しかも、営業としては唯一のアルバイトと言う身分で、である。
その頃ついたあだ名が「スーパー営業マン」。
まさに僕が先輩おじいちゃんに対して抱いていた
イメージそのままの呼び名である。
ついにここまで上り詰めたかと、乗りに乗っていた僕は、
次から次へとエリアを広げて行き、
褒美と称したボーナス2万円を
社長から毎週のように頂くようになった。

話は変わり、中学時代にヘッドハンティングされ
週1で始めた古着屋仕事もこの頃には古着屋オーナーと
互角に渡り合える服の知識を持つまでに成長していた。

名古屋のマンモスフリーマーケット出品、2日で85万円の売上。
これが私の古着仕事最後の販売実績だった。
この当時、販売員として1日に貰う僕の給料は4万円を超えていた。
これは一般の販売員の実に5倍である。

高校時代最後の思い出はバンドに明け暮れた青春時代の話だ。
ただしここでも僕は決してビジネスを忘れてはいなかった。
当時、高校生バンドが注目されていた頃、
僕はデビューを目論み戦略的にバンドを結成した。
ジャンルも当時勢いのあった青春パンクロックに絞り込んだ。
その戦略が功を奏し、何とインディーズレーベルから
トントン拍子でデビューが決まっていった。
ちなみに、デビューが決まったレーベルは、
小室哲哉が移籍して一躍話題になった、
あの吉本興業のレーベルであった。
ついでに言うと、僕は高校三年間、
ロックの象徴アフロヘアーで貫いた。


大学生時代へ続く…

Work and Education:

  • Life share works · 代表取締役 · Adachi-ku, Tokyo, Japan · Aug 2012 to present · 所有から共有へ
  • ChangeLifeOffice · 代表 · Oct 2011 to Jun 2012 · 今日よりもっとよりよい明日を!
  • 横田工業株式会社 · 平社員 · Apr 2009 to Jul 2012 · 現場監督してます
  • 尼崎市立尼崎高等学校
  • Otemae University

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